足跡の記録2017


201712 大樹寺



201711 井ノ口


井ノ口稲荷

創建寛永11年(1634)12月28日、井ノ口稲荷神社は、寛政6年(1465)当時分裂していた三河吉良氏の丸山中務入道父子・大場二郎左衛門・簗田左京らがたてこもっていた砦の跡に建立されたと考えられています。また、弥生時代の環濠集落(楼遺跡)も発掘されています。

 

〇 井ノ口稲荷を囲む川

井ノ口城址でもある裏手は囲むように堀として使ったと思われる川になっており一方は井田城に続く。川沿いに進むと新興住宅が現れ、それぞれに川を渡す橋かけている。

 

西光寺


〇七所神社

祭神は、櫛玉饒速日命、可美真手命、味饒田命、彦湯支命、大祢命、出雲醜大臣命、出石心大臣命天文十一年に今川義元が松平広忠を援けて織田信秀と戦った際、兵火に罹って古記の類いが失われたため、創建年代等は不明

 

〇お堂

社殿風に石仏、賽銭箱がある。正面に監視カメラが据えられているのが残念。

 

〇青山氏

祖先は上野国吾妻郡青山郷(現・群馬県吾妻郡中之条町青山)の出身で、その後、三河国額田郡百々村(現愛知県岡崎市百々町)に土着、百々城を拠点として松平氏に仕えたとされる。初見は松平広忠とその子元康(家康)に仕えた忠門。三河一向一揆で岡崎城守備。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると江戸町奉行に任命される。このころ廃城になる。その子忠成は秀忠の側近として近侍。関ヶ原の戦い後、加増され大名に列した。

東京都、青山地区の名称は、青山氏の江戸屋敷があったことを由来としている。青山通りの北面に宗家、南面に分家の下屋敷があったという。

 

〇青山府君碑と百々城跡の石垣

青山府君碑は百々城跡内にある。また付近の石組に、城跡を彷彿とさせる石組と角度、側溝の湾曲、途中からの積み方が変わるなどが見られる。


〇東蔵前町天満宮

本殿の賽銭箱 約10年前は雨樋を使用し、階段下にたまるようになっていたが、今回は柱から直接入れるように変わっている

社額の「満」と門柱の「満」が互いに違う

 


〇地蔵堂

本多忠勝碑にほど近い地蔵堂は塗り壁で土台もしっかりしている

 

〇本多忠勝生誕地碑

民家の軒先にひっそりと建っている。裏手にはお堂らしき屋根のみが見えるが付近に入口はない。この一帯西蔵前城跡のようである

 



〇岩津天満宮

ある時、一天俄にかき曇り、大地を揺るがすばかりの、一条の雷光とともに、芭蕉の葉に乗った菅原道真公が、瑞雲たなびく岩津の山に降臨したのが岩津天神のおこりと言われています。

 

〇和魂漢才(わこんかんさい)

日本固有の精神と中国渡来の学問。日本固有の精神を失わないで、中国の学問を消化・活用するべきである、の意。〔「菅家遺誡」から〕

 


201702 岩津・阿知波


〇謁播神社

この神社の由緒は大変古く神社創建の年代は詳らかではない。 第五十五代文徳天皇(八五〇~八五八年)の御代の文徳実録に、仁寿元年(八 五一年)謁播神社に位階従五位下を授くとあり、延喜五年(九二七年)の延喜式神名帳にも、謁播神社の名が記されている延喜式内社である。 九世紀半ばに編纂された先代旧事本紀(旧事本紀)の第十巻国造本紀に「物部 氏の祖出雲色大臣命の五世の孫の知波夜命が、物部氏を率いて国造として当地を治めた。」とあり、命が逝去された後村人はその徳を慕い、命の鎮魂 報恩のため祠を建て、氏神として尊崇したのが由来のようである。 神仏習合時代祭事は松林寺の社僧が行っていたが、明治維新以後神仏分離により現在に至っている。 明治五年(一八七二年)郷社に列せられ、明治四十年に神饌幣帛供進神社に指定された。 昭和二十一年旧社格制度は廃止され、替わって愛知県神社庁神社等級規定に より十等級に認定された。 平成十四年九月二十二日本殿覆殿並びに幣殿及び社務所増改築の御造営事業 が竣功し、同日八等級に昇格された。

 特殊神事「雨乞神事」この神事は、旱魃に時雨乞いをして、境内の池の水を農耕作業姿の氏子が汲 み干す神事であり、霊験あらたかで忽ち雨が降ったと言い伝えられている。 この祭りは「大旱の祭」と呼ばれて、明治維新後も四回行われた。

-社前案内板-

 

〇この日 2月11日は建国記念日で例祭が行われていました

実際の建国日が明確ではないため、建国神話(日本神話)を基に、建国を祝う日として「建国記念の日」が定められた。2月11日は、日本神話の登場人物であり古事記や日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日が、日本書紀に紀元前660年1月1日 (旧暦)とあり、その即位月日を明治に入り新暦に換算した日付である。 1873年(明治6年)に、2月11日は、日本国の建国の日として「紀元節」と定められ祭日となり翌年から適用されたが、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止された。その後、復活の動きが高まり、「建国記念の日」として、1966年(昭和41年)に国民の祝日となり翌年から適用された。(参考:主権回復の日)